火はつけたけど ―竹島取材補遺―
寺尾 宗冬
竹島の全景(提供・島根県) 「北鮮軍三十八度線を全線で突破、韓国軍と交戦中」――二十五年六月二十五日午後、私は隠岐島で朝鮮動乱の第一報を聞いた。
そのころまで、日本と朝鮮半島を往復する密航者たちは、隠岐島を対馬につぐ格好の中絶地として利用し、隠岐島民も、たまに表面化する密航事件には「またか…」といった程度の反応しかみせていなかった。密航事件にはなれっこになっていたわけだ。
だが、対岸の火の手がとめどもなく燃えひろがるにつれ、島民の表情はしだいにけわしく、きびしく変っていった。半島からの難民や謀略要員の潜入に備え、まず警察が沿岸の監視を固め、海上保安部は巡視艇のパトロールを強化した。自警団もにわか造りの見張所を建て、島内の情報連絡体制が着々と整えられるなど、島全体はやがて異様なほどの緊迫感に包まれていった。
好ましくはないが"戦争は最大の二ュース"だという。私は島の雑観を本社に送りつづけた。島民から、あるときはくどくどと、あるときは真剣に竹島の問題を訴えられたのは、ちょうどそういったあわただしいふんい気の最中だった。
「あの島はどうなるんじゃろ? 戦前の16年夏から、だれも渡ってはいない。いい漁場だったなァ。いま日本人が近づくとつかまるそうな。マッカーサーラインのそばじゃもん。韓国人が上陸しているとかいううわさじゃが、このまま放っておいてええもんかのう…」
竹島の位置(外務省ホームページより) 東経131度55分、北緯37度9分30秒――「竹島」は日本海に浮ぶ小さな岩礁で、東島と西島の二島をあわせてほぼ日比谷公園ぐらいの広さしかない。地籍は隠岐の島後(どうご)、つまり島根県穏地郡五箇村に属する離れ島。疑う余地もなく日本の領土であった。
当時、遊軍で動物園記者をも兼ねていた私は、別の意味からも竹島に深い関心を抱いていた。そこは、シベリア沖を南下するリマン海流と朝鮮海峡を北上する対馬海流のほぼ合流点に当る。寒流と暖流とが衝突するところは、魚群の宝庫だが、さらに竹島は世界でも珍しいアシカの群生地なのだ。しかも、あの芸達者で人なつっこい動物園やサーカスにいるカリフォルニア・シールスとは異って、ここのは野性もたけだけしい海獣――本格派のアシカなのだ。
竹島でのアシカ猟(島根県所蔵)昭和28年に島根県と海上保安庁が合同で建てた領土制札(島根県所蔵)
――ともあれ、いまはアシカへの興味よりももっと重大な問題がたちはだかっていた。マ・ラインのベールのかげで、なしくずしに日本の主権が侵されようとしているのだ。この島を無為に見すててよいのだろうか? いま竹島の主権を明確にしておかないと、悔いを千載に残すことになりはしないだろうか? 書く。それしかない。私は竹島への渡航と取材を堅く心に誓った。
それから1年、私は竹島のデータを集めることに全力を注いだ。戦前の古い資料、地図、写真、渡航者の経験談…。材料はほとんどそろえた。最後にどうしようもない難問が残った。″マ・ラインの壁″だ。占領下の日本政府は「政令第325号」で、マ・ライン周辺への日本漁船の立入りをきびしく禁止していた。
26年夏、サンフランシスコで対日講和会議が開かれることになり、故守山部長が特派員で渡米される直前、私は竹島取材の企画案を出して検討していただいた。マ・ラインに近づくことと、韓国を刺激することについて、守山部長はいささか難色を示されたが反対はされず「できるだけ合法的に取材できるよう研究しておきなさい」といい残されて渡米された。
"渡航してもよい"という承諾を得るため、東京本社を通じて外務省と海上保安庁、出入国管理庁、農林省をはじめ、少しでもひっかかりのありそうな官庁には精力的に交渉してもらった。だが、どの官庁からも、ふしぎにハンコで押したような返事がハネ返ってきた。「当局では、決定的な判定を下すわけには参りませんので…」
チャンスは突然訪れた。10月22日、衆議院の条約委員会で草葉隆円外務政務次官が「竹島は日本領土であることが確認された」と言明した。日本人が日本領土に出かけるのに遠慮はいらない。ましてやこちらは漁師でもない。この言明をきっかけに、企画案は実行の段階に移された。
若き日の寺尾宗冬記者 11月初旬、前年の「隠岐島ルポ」のコンビ、野尻敏将写真部員と私は、渡航基地に選んだ鳥取県境港市に出発した。竹島取材は、各社ともハラを探りあいながら、どこがいつ手をつけるか、といった状態にまで煮つまっていた。隠密行動をとる必要があるため、米子通信局とはとくに緊密な連携を保ちながら、渡航に必要な船と乗員を確保する作戦がひそかに進められた。三好真喜造局長(定年)と境港担当の堀江景三さん(通信部)には、一方ならぬお世話になったものだ。
境海上保安部長には、正直にこちらの意図を伝え、協力を求めた。渡航の名目にした「アシカなどの生態調査」という節を通すため、一般の漁船は使わず、鳥取県立境高校の福島哲校長を説得して、同校水産科の練習船「朝凪丸」(12トン)と乗員4人に協力してもらうことに成功した。うれしかったことは、福島校長がたいへんな愛国者で、竹鳥の復帰を心から願い、力強く激励してくれたことだ。どう出るかが、一番気がかりだった海上保安部長は、慎重だったがなかなかのハラ芸をみせた。
「さてね、あのへんは季節風が吹き出すとえらくシケるよ。海況や気象の資料は警救課長がそろえているはずだ。借りたければ借りたまえ。もっとも、必要な人には、だれにでも提供するんだがね…」
万一の難破と漂流を計算にいれて、カンヅメ、くだもの、飲料水、気つけ用のウイスキーなどは十分すぎるほどに積込んだ。
11月12日夜、日本海中部を低気圧が通過した。その後面から移動性高気圧が近づいている。あまり息の長い高気圧ではないが、24時間はもちそうだ、と米子測候所が教えてくれた。出るならいまだ。13日午後、まだ沖は暗く、白馬のような波がアワをかんでいる。船が動き出す間際に保安部から警救課長がかけつけた。出航を止められるのかとヒヤリとしたが、それは思い過ごしだった。彼はニコニコと笑うと、大きな荷物を差入れて、こういった。
「もしものことがあったら、私たちも探す手間をはぶきたいのでね」
荷物の中身は、航海用大型双眼鏡、緊急信号用の発煙弾、発炎筒、信号旗、海図…。
「当保安部は、あなたたちがどこに行くかは知らないが、まあご無事を祈ってます」
激浪にもまれながら、私たちの船が13日夜半、隠岐島沖を離脱するまで、巡視艇がそれとなく見送ってくれた。安宅関での富樫にも似た彼等の好意が、痛いほど身にしみた。
機関長と私をのぞいて、みんなが船酔いでノビてしまった。機関長はウイスキーを、私はサイダーをあおりながら船長に代って舵輪をにぎった。コンパスの針は北西微北11。雲が切れ、この緯度では初冬に近い月光がさえざえと海を照らし、それはむしろすごみをさえ感じさせるほどだった。
14日午前10時すぎ、前方に島影を見た。竹島にしては大きすぎ、地形も別のものだ。海図で調べると、それは欝陵島だった。あわてて右転進。上空でB29がゆっくり2度旋回して朝鮮の方に飛び去った。挙動不審の船と見られたようでもある。正午前、水平線に白いマストが突き出た。一瞬、船内がざわめいた。ソ連の軍艦のようだ。つかまりたくはない。祈るようにのぞく双眼鏡に、白いものの正体がしだいに拡大された。島だ!。一年間写真でながめつづけた竹島が、そこにあった。海鳥のフンがつもって、島全体が真白いリン灰石状になっていることを、私はすっかり忘れていたのだ。
船酔いで死んだようになっていた野尻君が、むっくり起きあがると、別人のようにシャッターをきりはじめた。
あらかた竹島の取材を終えたが、暗礁にさえぎられて、海からも陸からも近づけない東島の一角に、まだ新しい石碑がたっている。取材しないわけにはいかない。頭にカメラとノートをくくりつけて、2人は11月中旬の海を泳いだ。期待にそむかず、アシカもたくさんいた。私たちをけげんそうに監視していたリーダーが異様な警告の声をあげると、大群はいっせいに西島の外側に退避をはじめた。岩の上で休んでいたチビッコとハーレムのグラマーたちまでがドポン、ドボンと海に飛びこみ、しばらくの間は、かしましいアシカのさけびが、狭く暗い水道に無気味にこだました。
石碑には「独島遭難漁民慰霊碑」と刻まれ、左側に「大韓民国慶尚北道知事曹在千題」右側に「檀紀四二八三年六月八日建」とあった。檀紀は日本の皇紀に当る。朝鮮をはじめて統一した檀君即位の年から起算したもので、換算すると石碑は去年建てられたものらしい。碑文は朝鮮文字と漢字まじりで、つぎのように読まれた。
「檀紀4281年6月8日、59人の韓国漁民が、18隻の船に分発して出漁、この島で操業中、島が米軍の砲爆撃のマトになり、14人が爆死、行方不明になった。われらは海洋勇士の霊を慰めるためこの碑を建てる」
守山部長は、碑文のうち「米軍の砲、爆撃…」の文字をけずるようにいわれた。当時の情勢としては、やむを得ない″配慮″だったと思う。しかし、この碑を見たとき、私は韓国の強烈な民族意識をまざまぎと感じとった。韓国は「独島」すなわち「竹島」を絶対に手ばなすことはあるまい。このちっぽけな岩礁は、慶尚北道の独鳥と呼ぶべきか、島根県の竹島というべきか――それが問題だ。予感は不吉なものだった。
記事は慎重に検討されて、11月23日の朝刊に掲載された。反響はその日からまず国内で現われ「竹島は日本の領土である。江戸時代からの記録が証明している」といった連絡や古文書が各方面から届けられてきた。3日後には海外からの反響もあった。なかでもKPI共同は、韓国のマスコミが激烈な調子で朝日を攻撃していると打電してきた。
「朝日は帝国主義的侵略の夢が忘れられず、韓国固有の領土を乗取る宣伝をはじめた…」
国警本部が私たちの逮捕を指示するのではないかといううわさが一部で流れはじめた。マナイタの上のコイのような気持でいるとき、境海上保安部から、あの好意的だった部長と警救課長が大阪本社にかけつけた。
「いちおう密出国の疑いで調書をとることになりました。本部からの指示ですので、あしからず」
生れてはじめて調書と指紋をとられ、書類は大阪地検に送られた。とうとう、密出国容疑者の主犯にされたわけだ。裏に、いろんな工作のにおいが感じられた。
なんどか大阪地検に呼出され、検事の尋問を受けた。司法記者酒井翁右さん(編集庶務部長)のヒントで、私たちはオウムのように繰返した。
「外務政務次官が日本の領土だといっている島に調査を目的として行っただけだ。密出国の意思は全然なかった…」
竹島をめぐる日韓の情勢は急変していた。マ・ラインは消え、李ラインがとって代った。李大統領はいち早く「韓国海洋主権」を宣言し、竹島は韓国のものだときめつけていた。
昭和26年(1951)11月24日付の朝日新聞社会面 数ヵ月後、検事はこういった。
「起訴しないことになりました。よかったですね」
そしてつづけた。
「私も個人的には、竹島は日本領土だと考えていますが…」
のちに「週刊読売」が、この間のいきさつをつぎのように書いている。
「この事件(竹島取材)は、政府に大きな刺激を与えた。なんのことはない。両記者が政府に同島に対する講和後の措置を教えてやった結果になった。教えてやった上、始末書をとられたんでは、両記者こそいいツラの皮であった。この事件に刺激された外務省は海上保安庁、水産庁と協議を重ね、対日講和条約の発効と同時に、同島に日本領土権を復活することにきめ、その対策を検討していたところ、李大統領がアッという間に先手を打ってきた。これが昨年(27年)1月18日に突如として李大統領が発した"韓国海洋主権の宣言"である…」
27年から28年にかけて、竹島の帰属問題はしばしば紙面をにぎわした。竹島で操業している韓国人を取締まるため、海上保安庁が同島に派遣した巡視船「へくら」はタマ傷の跡もナマナマしく引返してきた。完全に要塞化した同島の韓国警備隊員から猛烈な銃撃を浴びせかけられたのだ。
東経131度55分、北緯37度9分30秒――そこに竹島があり、属島がある。日韓会談も、ついに帰属を決定することはできなかった。むしろ互いにその問題に触れることを避けるようなムードで、小さな岩礁は日本海の"真空地帯"になろうとしている。そこで韓国人たちは自由に操業しているらしいのだが――。
(朝日新聞「大阪社会部戦後二十年史・中之島三丁目三番地」所載)