歴史散歩道[第2弾]味国記を掘り起こす旅 最終回 「新聞記者・寺尾宗冬」に逢いたし
最終回 「新聞記者・寺尾宗冬」に逢いたし
「味国記」を復刻する手がかりを求める旅の終わりは、黒毛和牛の飼育で名高い三田(さんだ)である。なるほど、中国自動車道・神戸三田ICで降り、大学キャンパス傍の寺尾家をめざして、なだらかな丘陵地の間を抜けていると、牛舎があちこちに散在しているのを見かけた。
明るい声で寺尾夫人は出迎えてくれる。ご主人が亡くなってから、すでに七年。復刻については即座に承諾をいただいた。取材した都道府県、原稿として書き上げた地域をそれぞれ表にして、夫人と一緒に塗りつぶして行くのを楽しみにされた。その取材に際しては、すべて、列車、電車、バスを乗り継いで現地に足を運び、口にし、自ら調理するなど、まさに「ふるさと料理」を食べ歩いたわけである。加えて、文献や資料のチェックにもかなりの時間を割いたという。最後に、こんな裏話も明かされたのである。
昭和26年(1951)11月24日付の朝日新聞社会面 「味国記」執筆の終盤と重なるようにして、大阪本社発行の夕刊社会面に連載されていた人気コラム「お台所メモ」も担当。それから十五年間、エネルギーを傾注した。その打ち上げ慰労会に寺尾夫人も招かれ「寺尾さんの原稿の字は読みにくかったが、近年はきれいな読みやすい字に変わった」のは、夫人が淨書していたためと暴露され、出席者の爆笑を誘ったことを、当時の大阪・社会部長の内海紀雄さんが社内報『朝日人』にレポートされている、という。これが新聞人・寺尾宗冬を知る上で、この上なく重要な手がかりとなる。内海さんは、つい先頃まで、朝日新聞社代表取締役専務・大阪本社代表として活躍された方である。
早速、連絡を入れると、幸い、今回の復刻企画に賛同され、即座に「寺尾記者の輝かしい足跡」をコピーしたものを、FAXでお送りくださったのである。一読、熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。
『大阪社会部戦後二十年史・中之島三丁目三番地』に収録されている、寺尾さん寄稿の『火はつけたけど──竹島取材補遺』は凄い。その全文は大阪社会部の好意ある掲載許諾を受けて、発行元のホームページに公開しているので、ぜひ、ご一読いただきたい。昭和26年(1951)11月、当時、社会部遊軍で動物園記者を兼ねていた若き日の寺尾記者が、いまだに日韓で主権をめぐって決着のついていない竹島に上陸し、現地の有様をスクープするのだが、ジャーナリストとして、その前後の出来事といかに対処していったかを回想した貴重な記録であった。
その後、移籍した学芸部時代に、レジャーや今でいうグルメをいち早く紙面化した先見性は、当時から高い評価を得ていた、と後輩にあたる内海さんは尊敬をこめて伝えてくれた。
その『お台所メモ』の最終回で「適正な食生活」と題して寺尾さんは読者に呼びかける。
今は食べようと思えば世界中から食品が個人宅配で届く時代。グルメ嗜好は社会現象としてまかり通っていますが、飽食と混同されがちで、いろいろと弊害も指摘されています。昔は「土産土法」とか「一里四方のものを食えば無事息災」といわれました。郷土料理はそこに生まれたのです。(中略)まさに「食は命なり」。食の主人公も皆様にほかなりません。適正な食生活で、ご健康とご長寿を。
到達した食への想い。そして「味国記」に注いできた情熱。いささかでも寺尾宗冬記者
の声をお聴かせできていれば、と願いつつ、今回の旅を終える。
(2010年3月記)
取材中の寺尾宗冬さん
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