歴史散歩道[第2弾]味国記を掘り起こす旅 第7部 「吉野葛」と「つるべずし弥助」を継いだ人たち

第7部 「吉野葛」と「つるべずし弥助」を継いだ人たち


 吉野にしばしば通ったときの様子を、寺尾さんは『奈良・茶がゆと柿の葉鮨』の項に記している。

「扉開き」をしたばかりの大峯山に登る修験者と講の人たちが三三五五、特急の座席に陣取っていた。大阪のあべの橋から吉野まで、近鉄特急は古代、中世、幕末と激動する歴史の世界、記紀歌謡や万葉の舞台を快速で走り抜ける。

 山深い洞川で冬ごもりもした。ニホンカモシカを生け捕りするためだったが、その時、山間辺地に生きる人々の切実な食習慣を見聞する。そうした積み重ねがあって「吉野葛」「吉野のアユ―見事な姿すし」にめぐり会うわけだから、濃密な記述となるのは当然か。

 掘り起こしの旅の2日目。大和郡山を振り出しに、斑鳩(法隆寺)、明日香(石舞台)をクルマで駆け抜けてから、車首を初瀬街道方向に向けた。午後2時に「つるべすし弥助」49代目の当主とお目にかかる約束ができている。それまでの時間を使って、宇陀の「吉野葛(くず)」の本拠を訪ねてみようというのだ。

森野旧薬園森野旧薬園 ここだけは、すっかり時の刻みを忘れているワンダーランドだった。宇陀の中心からかつての伊勢街道に入った。道の両側は揃って創業百年を超える薬や酒、味噌、銘菓の商家が年季の入った看板をかかげて、それぞれに妍を競っている。それでいて、クルマがほとんど往来しない。人っ子ひとり、見当たらない。ともかく、先祖が南朝の遺臣で吉野・下市に住み、農耕のかたわら葛粉の製造をはじめ、吉野葛の元祖と伝えられる森野家が、江戸初期になって、この地区に移ってきているはずだ。裏山から「森野旧薬園」を臨む裏山から「森野旧薬園」を臨む束の間の町歩きをする。「史蹟森野旧薬園」の石柱。白漆喰の壁。薬医門。そして「みゆき(行幸)印」の暖簾の揺れる店構えの前に立つ。ここだ!
冬の葛晒しの準備をする職人たち冬の葛晒しの準備をする職人たち 残念ながら19代目の当主は不在だとかで、夫人に応対していただく。寺尾さんの書いている通り、およそ400年前の元和年間に、吉野から移ってきたそうで、この宇陀はきれいな地下水が豊富なこと、冬の冷え込みが激しいこと、それが最高品質の葛粉つくりに欠かせない条件だったという。冬の地下水で葛を精製する工程を「吉野晒(さら)し」と呼び、裏山の薬草園に通じる中庭に、寒晒し用の水槽、葛根を砕いたり乾燥させる工場と、葛の資料館があるので、案内しましょうか、といってくれた。否も応もあるはずがない。…そこからの見聞は、別の機会に詳述するつもりだが、森野夫人の別れ際の一言が気になって、もう一つ、宇陀の町で寄り道を重ねたことだけは、付け加えておきたい。
葛粉は山からの「白い宝石」葛粉は山からの「白い宝石」葛の根葛の根


葛きり葛きり 「四百年つづいてきた『葛つくり』を、息子たちの世代がこれからも継承していけるよう、近くに『葛の館』という名前で工場をつくり、茶房も併設しましたので、そちらで葛の本当の味をご賞味ください」

 『葛の館』ではもちろん、葛きりを注文した。前日、的矢で「生カキ」がつるりとノドを通ったときの至福の記憶がよみがえる。

新しく設けた「葛の館」新しく設けた「葛の館」

火事で2度も焼失し、昭和初年に再建された「紅殻の館」火事で2度も焼失し、昭和初年に再建された「紅殻の館」下市の町を貫く秋野川下市の町を貫く秋野川 午後1時45分、吉野山の入り口、下市にある紅殻の壁と、紅葉に染まった建物の玄関口に立った。応対に出た青年は当家49代目、宅田弥助の次男、次郎だと自己紹介したあとで、「父の話は2時間、しゃべりだしたら止まりませんから覚悟してください」と、さわやかに笑う。そして、昼の料理を摂りにみえた客の接待でもう少し時間がかかりそうだ、と詫びる。待つ間に「日本最古のすし屋」の由緒にかかわる文書や品々にも触れることができたのだから、間合いの取り方にも絶妙な芸が感じられる。

歴史を秘めた「つるべずし弥助」の庭歴史を秘めた「つるべずし弥助」の庭 藍染めの作務衣風職人姿で宅田弥助さんが現れた。先代は五年前に他界し、3年前に暁弘の名前を弥助に改め、家督を継いだそうである。案内された別棟三階の客間からの眺望を味わういとまもなく、開口一番、伝統の食文化を守っていくことの厳しさを明かす。店に飾ってある釣瓶の形をした吉野ヒノキの曲げ物で、本来の発酵法による「なれずし」をつくりたいが、今はそれができないでいる。酢を使うことで発酵させずに酸味をうながす「早ずし」を出さざるを得ない。その代わり、アユは吉野川山奥からの天然もの、すし米もわが家伝来の独自ルートで、最上のものを確保しているが…と。

アユの早すしと焼きアユすしアユの早すしと焼きアユすし 撮影用に準備していただいた「アユの姿ずし」「焼きアユずし」は早ずしそのもので、取材が一段落したところで賞味させていただいたが、早い機会に仕事を離れて再訪し、家人に馳走してやろう、と、心に誓ったほどである。歌舞伎「義経千本桜 鮓屋の段」についての解説、弥助のルーツについては、そのときまでのお預けとした。

49代目当主である宅田弥助さん49代目当主である宅田弥助さん
 帰り際、次郎青年がそっと告げる。ぼくの兄は調理場で修業中ですが、いずれ2人で、昔のままの『釣瓶鮨』を復活させます、と。父と子のこの呼吸。老舗の暖簾は、悩みながらも確実に次世代に引き継がれていく構図が、そこにあった…。




斑鳩神社から法隆寺を臨む

斑鳩神社から法隆寺を臨む斑鳩神社から法隆寺を臨む
明日香の石舞台明日香の石舞台
宇陀の眠ったような町の佇まい宇陀の眠ったような町の佇まい