歴史散歩道[第2弾]味国記を掘り起こす旅 第3部 的矢カキの『ドラマ』を食べますか?
第3部 的矢カキの『ドラマ』を食べますか?
「伊雑(いぞう)ノ浦といいます」
タクシーの運転手さんの教えてくれた光る海が、まるで湖畔を走っている感じで、右手に広がる。その向こうにテーマパーク「志摩スペイン村」の白い建物とジェットコースターの走るレールの骨組みが浮かび上がる。
志摩磯部駅からタクシーで、紹介された「丸定旅館」へ向かっていた。いかだ荘山上、旅館橘、丸定旅館を、志摩観光協会の担当氏は、磯部で牡蠣を食べさせてくれる「御三家」と名前を挙げたあと、そのなかから「丸定」を選んでくれたのだ。日帰りの飛び込みの客でも、的矢カキ料理を食べてもらえるよう、心遣いをする旅館だという。
海沿いの道が、いきなり山道に変わり、あちこちで紅葉に色づく山並みの頂きまで、タクシーは元気よく駆け上がった。白亜のリゾートホテルにぶつかる。そして狭まった伊雑ノ浦をまたぐようにして架けられた赤い橋が、展望台付きでこちらを招いている。タクシーを停めて、眺望をたのしめ、ということか。
運転手さんが誇らしげにガイド役に変身して、見下ろした入江の海面を指さす。
「筏のようなものが浮かんでいますやろ。あれがカキの養殖用で、竹竿のようなものが突き刺さっている方がアオサという海苔用。この伊雑ノ浦には伊勢の山々から流れ込む三本の川がたっぷり栄養を運んでくれるもんで、プランクトンがよう育つ。それをエサにするから、カキも海苔もよう育つ。まさに恵みの海ですな」
ホテルの敷地脇から真っ直ぐに下る道を、自分の庭にでも入っていく感じで抜けると、ぽっかり海ぎわに出た。目の前には、先刻、見下ろしたばかりの筏の群れが広がっている。振り向くと、そこが「丸定旅館」の玄関で、女将さんらしい女性が笑顔で出迎えてくれる。来意を告げると、海の見える、明るい食堂に通された。折から一組の客が食事を済ませたところらしく、入れ替わる感じとなって手が空いたのか、白いコック帽をかぶったこの宿の主人、西村和也さんが、わざわざ挨拶に現れたのである。
手際よく、西村さんの手で、纏っていた殻から自由になった的矢のカキが、皿に盛られて、目の前にある。
「(的矢カキは)通称〝無菌カキ″ともよばれている。特色は、成長が早いので、それだけ新鮮な香りと甘み、色、身の弾力が生かされる。身はたべごろの中粒でふっくらと丸く、つやがあり、白色か少し青みがある。ひだがよく縮み、貝柱は半透明。貝のへりが黒ずんで、全体に重い感じ」(「味国記・三重の項」より)
寺尾さんが、浮き浮きとした気持ちを抑え、対面した的矢カキを、あえて写実的に描いた気分が、真っ直ぐ伝わってきた。東京でなら、どんなに勧められても生カキには手をださないのに、ここではなんの抵抗もなく、レモンを軽くしたたらせてから口に運び、立てつづけに、5個もいただいてしまった。薄味だな。それが最初の食感だった。つぎに海につながる記憶が、やさしく湧きあがる。そして「海の清水」に鍛えられた「みのり」が口のなかで甘く広がる。
「いかがですか?」
こちらへ顔を向けた、この宿の主人の目が無言で問うていた。こちらも無言で肯く。それで充分だった。続けて運ばれたのはアオサの天麩羅つきのカキフライ定食。これも、あっという間に平らげてしまう。それを待っていたように、西村さんがふた綴りの「資料」を手渡してくれる。
『THE KAZE』と横文字でタイトルされていて、『季風』(No.4)の小ぶりな文字が控えめに飾られている小冊子のコピー。昭和61(1986)年秋に「丸定旅館」が発行したもので、テーマは「的矢かき」。さまざまな角度からアプローチしている。「海のミルク」「的矢湾」「的矢かきのできるまで」「旬・食べごろ」「よもやま話」、そして的矢カキの研究、養殖に人生をかけた人「佐藤忠勇」の項目が要領よく並び、次の1枚をめくると、公的機関に委嘱された検査機関が、平成17年(2005)に的矢のカキを試験・分析した「成績書」の写しが現れた。そこには生食用カキの指導水準を圧倒的にクリアした数字が記されていた。
さらに一枚をめくる。と、養殖筏の上に立つ銀髪の老人の、柔らかい笑みを浮かべて杖をついている姿。雑誌からの複写らしい。
「この方が、養蠣(れい)研究所の創始者・佐藤忠勇さんです。『暮らしの手帖』に《的矢の海に生きて》というタイトルでとりあげられて以降、的矢カキが全国的に知られることになったのです。その記念すべきグラビアページなんですよ」
あっという間に殻をはずす生カキにはやっぱりレモンか
昼の定食はアオサ天麩羅つきのカキフライをどうぞ
「的矢の海に50年」と「祖父の墓を訪ねて」
15ページにおよぶ丹念な「人物クローズアップ」だった。銀髪の老人と的矢の海との50年におよぶ関わりが、カキの養殖を媒介して、紹介されている。掲載年月日は不詳である。が、フロントページのネームの末尾に、こう書かれているではないか。
――その50年のすべての時間を〈カキ〉の養殖にかけてきて生きてきて、これからもいきてゆこうとする、これはひとりの男の歴史である。彼は今年九十才になる。
今年九十才になる、か。この記述が、寺尾さんの「味国記」と重なった。
「志摩・的矢湾養蠣(れい)研究所長の佐藤忠勇さんは、既に米寿を迎えた。長身、銀髪、仕事の鬼で、ことカキに関すると、談論風発、時のたつのを忘れさせる。実に若々しい。大正七年、北大の水産研究所から汽車と人力車を乗りついで的矢に来た。真円真珠養殖の夢にかけたのだが、特許を人に先行され、すぐカキの養殖に切り替えた。それから五十余年、理論と技術が実を結んで、すばらしいカキを育てあげ、水産と食品、特にカキでは国際的な存在になった……」
単行本の元となった朝日新聞連載の記事は、昭和50年(1975)2月9日に掲載されている。だから、多分、寺尾さんが的矢に取材に訪れたのは、その前年の49年の秋から初冬にかけてであった、と推測できる。そのとき、佐藤さんはすでに八十八才。したがって「暮らしの手帖」の企画は、「味国記」に触発されてスタートしたと考えることができる。東京に帰ったら、早速、国会図書館で確かめてみよう。
【筆者註:その推測は間違いではなかった。昭和52年新年号の巻頭を、それも総カラーページで《的矢の海に生きて》は飾っていた】
もう一方の綴りは54年前の「婦人画報」(昭和30年新年号)に掲載された壷井栄さん(『二十四の瞳』の著者、1899~1967)の短編小説『伊勢の的矢の日和山』の写しで、挿絵がわりに、この国の風土や人々の営みを撮りつづけた浜谷浩さんのカメラが、壷井さんの目線で、この的矢での出来事を捉えているのが、貴重である。そこで、西村さんの説明を概要すると、こうなる。
「この的矢は江戸時代から明治にかけて、江戸と大阪間の回船が風待ちする港として栄えたものです。うちももともと『定吉屋』の屋号で船宿をやっておりまして、特に九州や四国から来る船乗りさんが多かったようです。そんな中に、小豆島(香川県)出身の若い船乗りさんが船の上でコレラにかかり、ここで療養していたが亡くなってしまう。その人が、壷井さんの祖父に当たるとかで、ご本人がお墓を探しに見えられたそのときの話なんですが、そこにわが家の船宿と曽祖父が実名で登場していますので、参考までに……」
その壷井さんの祖父の墓が、この的矢の日和山というところで発見されたのだろうか。後ほど、名古屋へ引き返す列車の中で、じっくり拝読させてもらおう。
戸外に出た。西村さんが、カキの養殖過程を、実物で見せてくれるという。柔らかい海からの風が、頬を撫でる。35年前に寺尾さんがここを訪れたときも、同じような、的矢の風の優しさに迎えられたのだろうか。 (以下次号)
『婦人画報・昭和30年新年号』より日和山の墓地を訪れた壷井栄さん