歴史散歩道[第2弾]味国記を掘り起こす旅 第4部 的矢の海から桑名へ「七里の渡し」へ(1)

第4部 的矢の海から桑名「七里の渡し」へ(1)



 丸定旅館には庭らしきものはなかった。そのかわり、的矢湾そのものが、すっぽり借景されている。岸辺の桟橋に係留された白い船を揺する波さえ、眠ったままで、まるで山奥の湖畔に立った気分になる。光る海面に筏の群れと葦と見紛う竹竿の列がアクセントをつけている。幾重にも突き出ている岬。そのむこうに外海があるらしいが、ここからはまったく見えない。

湖畔の宿と見紛う「丸定旅館」のたたずまい木の桟橋に繋留されている養殖筏用の「カキ船」













岸辺の一隅に、金属製のパイプで組みたてられた藤棚のような施設があった。西村さんが現れて、手招きする。そこが的矢カキのできるまでをレクチャーしてくれる「教室」となっていた。
 まっさきにこちらの目を捕らえたのが、ホタテの貝殻を針金で数珠つなぎにして、下に垂らしたコーナーである。

「カキの〈種とり〉をする幼生採集器です。夏、カキが産卵するころに合わせて、浅瀬の海に並べておくと、海中をただよっているカキの稚貝が付着する。それを佐藤先生はカキの本場の一つ、宮城県の松島から、水温が極端に低くなる冬になったら、稚貝を温暖で栄養豊かな的矢の海に運び、ここで育てることに着眼したのです」
 的矢に届けられた稚貝つきのホタテの中央にドリルで穴をあけ、およそ30センチおきに、ロープに通して筏に吊り下げる。

「それが〈カキ連〉とよばれ、稚貝を海中にひたして育てる〈垂下式カキ養殖法〉です。夏が過ぎ、秋口に入ってから引き上げます。すると一枚のホタテに、だいたい二十個くらいのカキがくっつきあって育っている……」
 ああ、貝殻が花びらを開いたようにして吊り下げられているのが、それですね。
「そう。で、今度はくっつきあっているカキを一個ずつ、専用の道具で崩してから、よく育っているのを選り分けて篭に移し、もう一度、海に戻します」
一、二か月たつと、たっぷりと身の入ったカキに育ち、十月の終わりから十一月にかけての水揚げ(収穫)を待つという。

「この方式が考案されるまでは、出荷できるように育つのに二~三年はかかったのですが、一年で甘くて柔らかで、ふっくらして艶のある、見事なカキが採れるようになりました」

 やがて的矢のカキは、紫外線利用による洗浄法によって、生でも安心して食べられる「清浄カキ」として大ブレークをみせるのだが、それにいたるまでのドラマを知るにはもう少し、時間をかさなければならなかった。
 夕方まで名古屋に戻らなければならない。その前に、桑名の「七里の渡し」にも行ってみたい。タクシーを呼んで貰おうとすると、西村さんも町に所用があるので、近鉄特急の停まる最寄り駅まで送ってくれるというので、便乗させていただいた。
「的矢カキのできるまで」の講師・西村さんよく育ったものを選り分け再び海に戻す

聖地の銅像に問う……今は満足ですか?

表通りまで駆け上がった西村さんが、ちょっと寄ってみましょう、といってパールラインを引返す感じで、ハンドルを右に切って、森の中の坂道を下っていく。小ぶりな漁港。向かいの島への渡船乗り場とその駐車場から推して、そこが集落のセンターと思われる地点に出たようだ。湾に対面するかたちで「的矢カキ養殖」の聖地、「的矢湾養蠣研究所」が時間の凍ったままの姿で保存されていた。さらに的矢カキの生みの親・佐藤忠勇さんと覚しき人物の銅像が、大量のカキ筏の浮かぶ「恵みの海」をみつめている。

「我が人生に悔いなし」と胸を張っているような銅像
昭和5年(1930)、カキで稼いだお金をそっくり投じて「的矢湾養礪(れい)研究所」を設立する。的矢湾の水温、塩分、透明度、潮流の変化、プランクトンの発生時期、場所などのデータを収集する目的だった。その統計はいまもなお、見事に、生きつづけているという。昭和59年、97歳で天寿を全うされた佐藤さんの志を継いで、四代目が健全に経営している。

当時、わが国唯一の民間水産研究所だった

 昭和49年(1974)の秋に、寺尾宗冬記者が的矢湾まで足を運んで、佐藤忠勇さんから引き出した話を、「味国記」に、以下のように紹介しているが、実際に的矢に足を運んでみて、その一行、一行に託した寺尾さんの想いに、やっと同化しつつあった。

「カキを育てるのは沿岸の陸地と、そこから流れこむ川なのです。それが湾内でプランクトンを育て、カキのエサになります。ですからカキの味は、とれる海ごとに異なる風土の味なのです。的矢湾には後ろに二、三百メートルの低い山があり、水質、温度の異なる三つの川が注ぎます。流域は山林、農地で全く無公害地帯ですし、PCBや重金属による汚染もありません。湾内と外海の海水の入れ替わりがよく、湾底がいつもきれいなうえ、年間を通じて温度も安定しています。〝地の利〟ですね」

 丸定旅館まで運んでくれたタクシーの運転手さんの見事な解説も、この佐藤談話に源流があったわけか。寺尾さんが、さらに書き加える。

これに〝知の利″が加わる。自然にまかせていても、これだけの品質が保証されるのに、さらにみがきをかける。厚生省の規格では、生食用のカキは細菌が検体一グラムにつき五万以下。大腸菌は百グラム中二百三十以下。「いっそ無菌化しては」と佐藤さんは考えた。カキは一時間に約二十リットルの海水を〝呼吸″する。海水が無菌なら、一定時間をそのプールで飼うと、体内の菌は全部排出される。紫外線で殺菌した海水をシャワーのように落とし、プールで約二十時間脱菌させ、汚水は底から抜き捨てる。この浄化法で特許が(註:昭和30年に)認められた。

 この短い文章に盛り込まれた「的矢カキ」が、それからの三十五年間、そのままの養殖法で、守り継がれていた。丸定旅館の西村さんが、戸外に現物を展示して、その養殖法を説明してくれた以上、佐藤養殖場の特許である紫外線清浄システムを、やっぱり見せておくべきだろうという、うれしい配慮に違いなかった。

 的矢カキの浄化場は研究所に近接した海ぎわにあった。
西村さんに導かれて、浄水場の内部に入る。3本のプールに向かって、パイプから降りそそぐシャワー音に圧倒される。紫外線で滅菌した海水だという。カキ篭で養成されたカキは清浄化のため毎朝、筏から採取され、洗浄された後、この浄化場に運ばれ、寺尾さんが取材した時と同じ方法で滅菌された「清浄カキ」となって、翌日出荷されるという。その年間生産量は殻つき200万個、むき身7000㌔が、湾内のプランクトンの量からいって、品質を落とさない許容量で、それ以上の増産はしない方針も継承されているそうだ。

 西村さんのメモによれば、今でこそ宅配便が発達して、東京、大阪の約700のレストラン、ホテルに直接出荷されているが、かつての的矢カキは殻つきのまま出荷しなければならなかったため、的矢の若い女性が「カキのむき娘」として、東京、伊豆、名古屋へ派遣されたものだし、鳥羽発20時、品川着6時の深夜列車で送られてカキを、的矢の若者が自転車で品川駅から、東京中のお得意さんに配達しなければならなかった。 

 午後3時、最初に降り立った伊勢志摩駅を2駅南下した鵜方という駅まで送られて、ひとまず賢島発の大阪行きの特急に飛び乗り、鳥羽で名古屋行きに乗り換え、桑名を目指した。やっとゆっくり、西村さんにいただいた資料に目を通せる。浮き浮きと壷井栄さんの「伊勢の的矢の日和山」を読み始める。
 30分ほどたって、ふと、車窓から外に視線を移すと、秋の陽は西側のやまなみに落ちこんで、すでに黄昏がせまっているではないか。桑名は間に合わないのか。

養蠣研究所前の「恵みの海」的矢湾佐藤養殖場の「的矢カキ」パッケージ
























これが幼生採集器
〈カキ連〉の見本
































ありし日の佐藤忠勇さん (1981年・サントリー地域文化賞受賞)


この滅菌海水槽で20時間カキを飼う
その結果、カキの内臓は きれいな海水と入れかわる