歴史散歩道[第2弾]味国記を掘り起こす旅 第2部「味国記」と著者・寺尾宗冬さんについて
第2部 「味国記」と著者・寺尾宗冬さんについて
「味国記」とは? 耳慣れない熟語に違いない。そのはずである。著者の寺尾宗冬さんの造語であった。単行本の「味国記のまえがき」によると、寺尾さんは、この国のかたちとなりたちに注目した。
火山脈が縦横に走る島国で、耕地面積は、全国土の20パーセントそこそこに過ぎない。国土が山地と渓谷、河川、海で分断された地域で、それぞれ個性ある人間性、文化、風俗が育てられ、それに拍車をかけたのが、幕藩体制による閉鎖的な地域性。そこに生み出されたのが、郷土意識であり、ふるさとの暮らしであった。四面を取り巻く海から得られる魚介類でさえも、土地土地での調理法におおきな、あるいは微妙な相違がみられる。そういった風土と人間がつくり出したたべものが郷土料理であり、ふるさとの味にほかならない。
「風土記」は和銅6年(713)に元明天皇の詔(みことのり)で編纂がはじまった。土地の名の由来、産物、地理、伝承を中心に収集した貴重な記録である。
「人国記」は、鎌倉幕府の五代目執権、北条時頼、のちの最明寺入道が出家姿で全国を歩き、風土の人情やら、物産に言及したものとして、広く読まれたらしい。
風土記と人国記を兼ね、食に重点を置いてまとめよう、というささやかな試みが、この「味国記」である。そこでミコクキという言葉を造成して題名にあてた。(原文)
新聞連載中の「味国記」は、当初、4段組み挿入写真なし、ではじまっている。それが回を重ねた半年後の「石川県・じぶ煮」の項から5段組みに格上げされ、じぶ煮の写真が添えられている。それが昭和52年(1977)5月3日付の「神奈川・箱根みやげ」までつづけられるのである。注目の連載企画であったことが、うかがわれる。
「朝日新聞に好評連載中! 四季のふるさとへ日本人の味と舌の伝統をもとめて描いたユニークな文化史。日本の味の本質をとらえて、この1巻に日本の味覚の美しさを収めた郷愁の好著!」
やがて、こんな謳い文句で、昭和51年12月、「味国記」は連載中にもかかわらず、四季書館(東京都港区)から出版された。収録都府県は21。まだ半分以上が積み残されている。いずれ続編が刊行される、と予測するのが常識だろうが、なぜか後続はなく、2年半後の昭和54年7月と8月に、あらためて有峰書店(弊社)から一挙に2分冊のスタイルで、仕切り直している。
その辺の、出版事情はわからない。が、初出から35年以上が経った今でも、「味国記」は瑞々しい命を保っている。いや、いまだからこそ、食の文化、味の文化について想いを深めるのに、格好の「教典」とすら、思える。
そうだ、この著作に現代の光を当て、写真などを補強して、復刻できないだろうか。そして、もしご存命なら、寺尾宗冬さんにお目にかかれないものだろうか。奥付にある「著者略歴」を見ると、1924年、つまり大正14年生まれとある。ともかく朝日新聞大阪本社のしかるべき部署に問い合わせる。やっぱり遅かった。すでに2003年、他界されたと告げられてしまった。
三日ほど経って、兵庫県三田市在住の寺尾夫人から電話をいただく。先に問い合わせた朝日新聞大阪本社のしかるべき部署の大変うれしい配慮であった。こちらの復刻したい意図を伝えると、未亡人にはとても喜んでいただけたようだ。こちらの心が急いだ。さっそくお目にかかる段取りをとりつけたのである。
夜明けの東名高速を走り、西へ―。
午前4時きっかりに、クルマで東京・練馬を発つ、というエネルギッシュな旅程で、「味国記」を掘り起こす旅がはじまった。ゴールは中国自動車道・神戸三田ICのそば、関西学院大学にちなんだ学園町の寺尾家。11月中旬の火曜日の11時にうかがう約束だった。そこから、逆算して、月曜日の午後に吉野・下市の「弥助すし」の取材。ならば日曜日に京都・錦市場の賑わいを撮影し、その足で伏見と宇治へ行けなくもない。
「ぐるめらいふ」を仕上げたばかりの編集部の佐々木亮君が、カメラマン兼ドライバーとして同行してくれることとなった。それが出発日の近づいたところで、佐々木君から、1日早く東京を出たいがどうか、と相談があった。同じ東名高速に乗るなら、名古屋に寄って、「ぐるめらいふ」の販売促進をしたいので、というのである。大いに賛成である。
実の話、交通量の少ない日曜日の早朝に東京を発って、500キロ近い道のりを一直線に京都に入るのは、当方の年齢(73歳)を考えると、かなりの無理がある。ならば、名古屋に前泊し、翌朝に京都入りすれば、日曜日の動きにゆとりがとれる。加えて、早めに名古屋入りすれば、こちらはさらに、中京地区の見聞も深めることができるというものだ。かねてより、「味国記」に記されている、三重の桑名、鳥羽の項を確かめたいと、願ってもいた。渡りに舟とはこのことか。そうだ! かつての旧東海道五十三次を往く旅人は、名古屋・熱田神宮そばの宮宿から海上七里の船便で、桑名へ渡らなければならなかった、という。桑名の「七里の渡し」。蛤を伝統の調理法「しぐれ煮」で食べさせてくれる有名な店があると聞く。この機会に行ってみようではないか。
このため、土曜日の未明出発という、旅程となった。
用賀から東名に乗ったのが午前4時半。このケースならちょうど、140キロ地点の静岡県・由比PAあたりで駿河湾の日の出が拝めるはず。が、生憎の小雨模様で、不能。牧ノ原を越えるころには、ワイパーのスピードを最大にしなければならないほどの降りとなった。
愛知県に入って、豊橋を過ぎたあたりから、渋滞がはじまった。一計を案じる。目と鼻の先の岡崎ICで降り、JR岡崎駅まで送ってもらい、こちらは東海道在来線で名古屋へむかう。佐々木編集部員は東名高速には戻らずに、そのまま最初の訪問先である愛知郡長久手にむかってもらい、夕方、名古屋のホテルで合流しよう、と。
夕方までの自由の羽根を得た。通学途中の高校生に囲まれて、名古屋着。すぐに午前10時25分発の賢島行き近鉄特急に乗り継いで、三重県鳥羽へ向かった。ともかく南へ下ってみよう。幸い、雨もあがり、明るい日差しがこぼれはじめていた。桑名の「七里の渡し」は、鳥羽からの帰りの楽しみにとって置くことにした。四日市を過ぎると、右手に遠く鈴鹿の山並みが望めるようになった。
白子、津を過ぎ、鳥羽に近づいたところで車内放送が流れた。「鳥羽のあとは志摩磯部に停車します…」と。「磯部?」どこか、記憶の奥で眠っていたものが起き上がってくる気配。ふい、とカキの養殖筏が縞模様となって光る海面がイメージされた。磯部は的矢湾を抱きかかえる町ではなかったか。幸い、今は11月。海のミルクと異名された清浄カキ、的矢カキをそのまま、ナマで食べられるはずだ。こうして、鳥羽を乗り過ごし、いくつかの長いトンネルをくぐりぬけて、志摩磯部に着く。が、駅前のロータリーに出て、後悔した。なんとも活気がない。かつては「志摩スペイン村」ブームで賑わった時期もあったらしいが、今はその面影もない。
さて、どうしたものか。こんなときは地元の観光協会に問い合わせるに限る。公衆電話ボックスに飛び込み、ダイヤルを回す。ちょうど、お昼時だったが、応対に出た男性の応対は温かかった。的矢カキの食べられる、しかるべき場所を予約しておくので、10分後にもう一度、電話がほしい、とのことだった。こうなると現金なもので、先ほどまでただ寒々しいだけの駅舎だとおもえた「磯部駅」が、南欧風の洒落たデザインに見えてきた。
的矢の海辺でめぐり会った「この国最高の生カキ」の味はどうだったか。「味国記」を掘り起こす旅は、予期しない収穫を招き寄せてくれた。