歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 永代二丁目交差点、幻の「夕河岸」の痕跡を追う

永代二丁目交差点、幻の「夕河岸」の痕跡を追う

 門前仲町に向かって、東へ真っ直ぐ向かっているはずの永代通りが、葛西橋通りと分かれる地点で、いきなり姿を消してしまった。
 歩道橋をのぼって行かないと、真っ直ぐ、永代通りに戻ることのできない仕組みになっているとわかって、一瞬、迷った。そのまま歩道橋を使わずに、葛西橋通りに寄り添って左斜めに折れている歩道を進むと、どこへ連れて行かれるのか、試してみたい気もしたが、ともかく、当初の目標通りに、ひとまず、門前仲町から、その先にある深川不動、富岡八幡宮を訪ねることにする。

 歩道橋は逆コの字にしつらえてあった。階段をのぼって直ぐに、永代通りを横断して、向かい側の「永代二丁目」に降りたつことのできるのが最初の一辺で、葛西橋通りをまたぐと、もう一本の歩道橋が、同じように、向かい側の町へ渡れるよう、繋がれていた。

 歩道橋の上に立つ。クルマが走り抜けるたびに、足元が小さく揺れる。高い場所に立った分、視界が広がった。向かい側の永代二丁目界隈は、なぜか高い建物も少なく、低い家並みがつづき、隅田川対岸の佃島にそびえる高層マンション群がこちらを見据えている。永代通りという幹線に面しているにもかかわらず、ここだけは、およそ活気というものが感じられない、見捨てられたような一帯だった。が、通り抜けようとするこちらを呼びとめる、磁力のような気配が襲ってきた。

 シャッターは随分前から降ろされたままらしい。すでに使命を終えたまま放置されている看板を読む。「小林菓子店」に「魚吉」。食べ物に関係する店が軒を連ねていたのだろう。電話番号も昔の3ケタのままだ。西村教授が浮き浮きと描写した、永代橋を渡ってから最初にぶつかる深川の賑やかな町は、たしかこのあたりのことではなかったか。その一節を、もう一度、復刻してみる。

「電車の線路に沿って黒江町へ出ると、夜店の灯りがしめっぽい空中に反映して、うっとりとした光を街の上にたゆたわせている下で、ハマグリやシジミ、サザエを売っているのを見るとき、湯気の立つ白飯の上に(アオヤギの)むきみ貝をもった深川飯をその看板の陰に見る時、竹を植えた格子造りの小さい家に、蒲焼、柳川鍋の行燈がかかっているのを見る時、抜き衣紋の片肩を低くしてしゃならしゃならと歩く櫛巻きの女を見る時、私はここがやっぱり東京の中であるかを疑った」

黒江町の「夕河岸」(『深川区史』より転載)黒江町の「夕河岸」(『深川区史』より転載)
 ここに「深川区史」に掲載された一枚の写真がある。「黒江町の夕河岸」と見出しがついている。関東大震災以前、多分、大正十年ころに撮影されたものだろうが、まるで縁日のような賑わいだ。道端いっぱいに、威勢のいい掛け声と一緒に魚介類が並べられ、それを品定めしている人々の流れ。男性のほとんどが白いカンカン帽をかぶり、女性は丸髷姿が多い。その脇を「東京市電」が走り抜けている。これが、西村教授の描きたかったシーンだと、ピンときた。ただし、この写真、夕河岸と銘打っているものの、まだ陽の明るいうちに撮られているため、「うっとりとした光」という雰囲気ではない。

「(前略)江戸時代、このあたりは深川猟師町と呼ばれ、魚貝類の生産が盛んであった。とれた魚は、幕府に納めたり、『地小買』を通して売られ(中略)明治以降は、前夜に船で到着した魚を、ただちに生簀に移し、翌日未明に店に並べた。活きのよさで有名で、地元の仲買・小売商へ売りさばき、残りを日本橋などの市場へ持ち込んだ。この魚市場(深川魚市場)とは別に、その日に捕った魚貝類を夕のうちに売る『黒江町の夕河岸』も有名だった」(「江東区の文化財・永代橋界隈」より)

 いまとなれば、幻のようなシーンだ。が、その痕跡はかならず根雪のように、どこかに残っているはずだ、と確信していた。

 歩道橋から見下ろした「永代2丁目交差点」の風景。かつて「深川魚市場」「黒江町の夕河岸」として人々に親しまれた「舞台」であったにしては、いくつかの時代の変革をくぐり抜けるうちに、すっかり顔かたちは痩せ細ってしまった。しかし、骨格だけは隠しきれるものではなかった。現在の写真と見比べてほしい。
昭和10年ころの永代二丁目交差点昭和10年ころの永代二丁目交差点現在の永代二丁目交差点現在の永代二丁目交差点











新永代橋開通の翌年生まれ
 こうなると奥の手を使うしかない。旧深川猟師町の一つ、いまは永代一丁目に組み込まれてしまった諸(もろ)町で生まれ育った人物に、「黒江町の夕河岸」を見てもらい、場所を特定してもらうことにする。永井昭次さん、八十二歳。その名前からわかるように、昭和二年生まれ。奇しくも今の永代橋の開通式があった翌年に、すぐそばで生を享けている。建築金物職人。町内にある正源寺の鉄門、富岡八幡宮の宮神輿の前にある鉄製の賽銭箱、紀文稲荷の鳥居。永井さんが腕をふるった作品である。詳しい紹介は別の機会を目論んでいるので、そちらに譲る。柔道七段。真夏の深川祭にはそろいの半纏姿で、若者の先頭に立つ根っからの土地っ子である。

 永井さんの作業場。もちろん、最初に深川入りした時点から1カ月半は経ってからの話であることを断わっておきたい。

 しばらく、プリントアウトした「黒江町の夕河岸」を「鑑賞」してから――

「こんないい写真がよく残ってたもんだ。こりゃあ、震災前の様子だね。表通りの深川消防署(永代分署)のあたりから、門前仲町に向かう一帯が市場になっていて、露天商ばかりじゃなく、魚問屋もあってね、東京湾で獲れたばかりの、活きのいいのが買って行けたんだよ。夕河岸ってのは、もっと永代橋寄りからはじまっていたね」

「永代2丁目交差点の歩道橋南側の根っこに小林菓子店とか魚吉の看板だけは残っていますが……あのあたりから? あの店はいま……」

「ありゃ、とっくに廃業しちまった。いろんな種類の菓子を売っていたんだけどね」

 隣りの魚吉も羽振りのいい店だった。バブルの全盛期に、丸の内界隈を開発した大手の不動産会社が、あの一帯を買い占めた。ところが、なぜか開発プロジェクトは頓挫したままだ。

 こちらから切り出す。先日、同じ通りの並びにある「うなぎ屋」に飛び込んで、鰻重を注文してから、世間話として、どうしてこのあたりだけ、地上げ屋の手が入らなかったのか、と訊ねたところ、入り組んだ借地権だの、大家の地主一族で複雑な確執があったりして、話がまとまりにくいとか聞いた。なんでも銀座で評判をとっている「パン屋」の同族とかの大きな工場と店があったんですって? ま、かつては「夕河岸」といわれるほど、ひとの寄り集まった土地なのに、いまでは時代からおいてけぼりにされているのを、どう思うか、と。

「それは表通りの話だろ。土地を売って出ていくと碌なことはない。いい話は聞かないね。それより、この八月の十五日は深川祭だ、ここの町内の《二ノ宮神輿》が出るけど、見に来るかい? ちったあ、この町のことがわかると思うよ」

 神輿の練り歩く行程表を渡された。もちろん、祭り半纏をまとった永井さんの現役ぶりをカメラに収めるつもりである。

 さて、門前仲町の交差点は目の前だった。次回こそ、深川歩きの定番スポットである深川不動堂から富岡八幡宮へ、しっかり、ご挨拶をしておこう、と、改めて自分に言い聞かせた。


永代2丁目交差点。逆コの字の歩道橋。永代2丁目交差点。逆コの字の歩道橋。


小林菓子店
魚吉ここだけはポッカリと廃屋地帯となっている元「小林菓子店」と「魚吉」

明治の人気作家:泉鏡花の「深川散策ルポ」

江東区文化財主任研究員の向山さんから、ありがたい教示が二つ、あった。ひとつは「黒江町の夕河岸」と「魚市場」は別物で、早朝から開かれる魚市場が閉まって、そのあと、あたりの道端で出店のように開かれるのが「夕河岸」であったようだ、と。もうひとつは明治の後期から昭和初期にかけて活躍した作家、泉鏡花(1873~1939)が深川浜・黒江町の光景を「大東京繁昌記・下町編」(昭和2年、東京日々新聞連載)に「深川浅景」と題して書き残しているので、参考になりませんか、と。さっそく、一読。
「鯒(こち)や黒鯛のぴちぴちはねる、夜店の立つ、……魚市の処(ところ)、火の見の下、黒江町」に行きたかったが、まだ日が高い。そこで馴染みのある佐賀町を振り出しに、深川各町の「深川情緒」を訪ね、最後は蛤町、大島町にかけ魚問屋の活船(生け簀)に泳ぐ鯛を見に行こうとして、なかなか行きつかない「散策ルポ」。目をひいたのは裸電球の下で繰り広げられる「夕河岸」の熱気。鏑木清方の挿絵は抜群。昭和3年、春秋社。昭和41年、中外書房から単行本刊行。同51年に講談社より翻刻版が出版されるなど、その根深い人気のほどがうかがわれる。



夕河岸の光景をとらえた挿絵:鏑木清方画「大東京繁昌記」より夕河岸の光景をとらえた挿絵:鏑木清方画「大東京繁昌記」より