歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 深川猟師町の起源は「佃島」にあり
[西村ゼミ要約(1)] 深川猟師町の起源は「佃島」にあり
「古いものの生命は沈滞し、新しいものの生命は躍動する」と前置きして、西村眞次教授は、深川発展の経路を、こう書き始める。
江戸の市中で、もっとも遅れて発生し、もっとも速く成長して、そこに独特の文化『深川情調』を創りあげた深川発展の歴史は『とき』を縦軸にし、『ところ』を横軸に据え、『ひと』を縦横にかけあわせて、すくなくとも四つの段階にわけて観察できる、という。
[1] 漁師町 [2] 門前町 [3] 商業地域 [4] 工業地域。
まず、第一節として深川揺藍期の「漁師町」から着手するのだが、その町の起源を「佃島」にもとめている。さてその理由は何か。
もっとも古いといわれる『慶長江戸図』は、深川の存在について、なにごとも語ってくれないが、そこは隅田川の河口で、三角州(デルタ)ができ、葦が生い茂り、潮が引くと砂洲があらわれる、そんな荒涼な地帯であった。
天正十九年(1591)に、瀬戸物町の野地豊前が、隅田河口の航行の危険を除くために、澪標(みおつくし=航路を示す標識)を洲崎に立てたら、舟人がよろこんで、それを『野地ほん木』と呼んだというが、どのあたりであったかは、はっきりしない。いまの佃島以西であったろうと思われる。
『武州豊島郡江戸庄図』(一名『寛永江戸図』)を見ると、本所には「新田」と記し、深川には地名の記入がなく、本所と深川との間の小名木川口には「行徳口」と記入してある。そして霊巌島の南西に、一つの小島を措いて「三国島」と註を入れている。これを「ミコク島」とよまして、いまの佃島だといっているものがある。
佃島ができたのは、かなり古かった。萬治年代(1658~60)にはすでに、深川には「深川新田」の名称があり、また「永代島」の名もできており、すでにそのころには、石川島に隣り合って「つくだ島」のあったことが当時の地図で知ることができる。佃島には久しい前から、漁師が住んでおり、そこに住吉の社(やしろ)があったと天和、貞享年代(1681~87)の物の本に書いてあり、『江戸砂子』もまた摂津佃の漁師がここを拝領して、漁労に従事したことを記している。
天正十八年(1590)、徳川家康が入国の際、(大坂)摂津西成郡佃村の名主、森孫右衛門が、佃、大和田、両村の漁師三十余名を率いてこの地にやって来て、江戸の河々、および近海で漁労を営みたい、と願い出て許され、その漁獲した魚介を幕府の膳所(ぜぜ=武家の台所)におさめ、残りを市中で売ってよいことにした。だが、その後、佃島の発展につれて漁師の数も多くなり、漁獲の高も増加したので、孫右衛門の子、森九左衛門は、慶長のころから納め残りの魚を、日本橋本小田原町の見世(店)で売りひさぐことなった。これが魚河岸の起源だといわれている。
猟師町の形成~「江戸前」「いなせ」の芽生え~
こうして佃島の漁業は発展して行くのだが、なにしろ、きわめて狭小な地域だから、多数の漁夫を収容することはできない。追々と大川(隅田川)の対岸の新沖積層に、居を移すものも出てきて、それが後の深川猟師町となった。いまの蛤町、大島町あたりがその起源で、まわりを溝渠(ほりわり)がはりめぐらしているところから見ると、はじめは小さな三角州であったと思われるが、やがて移住した漁民の新しい生活の中心地となる。
【筆者註】西村教授の記述が「漁師町」から、「猟師町」に入れ替わっているが、それについての説明がなされていない。「猟師」と記述すると鳥や獣を捕獲する人をイメージするのが一般的だが、江戸時代では魚をすなどる「漁師」もこの文字を使っていて、さまざまな史料の中でも「深川猟師町」と表記されているので、西村教授もそれに倣ったものと思われる。
「西村ゼミ」を続けよう。熊井、佐賀、相川、清住、諸(もろ)、大島、冨吉、黒江の八つの町を『旧猟師町』と称し、寛永七年(1630)から一カ月に3回ずつ、鰭(きす)、小鐘(せいご)などの魚類を、臨時に蜆(しじみ)、蛤(はまぐり)などの貝類を将軍に献納すること、それに川筋へ「御成り」のあるときには、それにかかわる水上の夫役を、この八区の負担としていたが、魚介の上納は寛政四年(1792)以降廃止して、そのかわり銭六十六貫七百匁を年貢として納め、毎年七月十五日に、活きた手長海老百尾を上納することになった。『浜十三町』といわれたのも、結局は漁師の住んでいた場所の総称で、旧猟師町と大同小異である。これらの事実をみても、猟師町の起源と発達の歴史がわかる。
本所深川絵図(嘉永五年=1852) 原図・国立国会図書館蔵 岩橋美術復刻版より転載
慶長年代(1596~1614)における江戸の発展はすばらしいもので、その八年(1603)には、神田山を崩して、南の海面を埋め立て、そこに新市街をつくる。こうしなければ、増加する市民を住まわせる場所がなかったのである。こうして増加する市民の食膳を賑わすためには、在来の漁労法では不十分だったので、上方地方から多数の漁師が江戸に来て、地獄網という大網で魚介を捕った。そのため二十四、五年の間に、江戸湾内の魚介が尽きてしまった、と同時代の書物(註:慶長見聞集)は記している。これらの漁師は佃島だけだはなく、深川の猟師町にも住んでいたことは疑いなく、それが『江戸前』という言葉の起源になっていった、と思われる。
漁獲された魚介類は、時が経てば腐りやすいので、その処置は当然、機敏になされなければならない。したがって、漁師や魚商人の間には、敏捷を尊ぶようになり、敏捷に相似した勇気、元気、気概といった気分が一つとなって、いわゆる『いなせ』が育った。だから、『いなせ』が『江戸前』と一致するものであるならば、『いなせ』もまた、深川の猟師町に基因した、といってもいいのではないか。
佃煮を深川でも継承する風景(永代一丁目)
これが、その揺藍期に『いなせ』を芽生えさせた深川猟師町のおぼろげな歴史である。漁夫の生活中心である猟師町を形成するのにふさわしい立地条件は、漁船の出入りに便利な、漁場とさほど遠くない、一口にいえば海に面した海岸平地、あるいは島地でなければならなかった。これを深川の第1期地理的発展とでもいおうか。この期は天正、寛永の間で、深川が漁師町としての姿、形を備えた時代であり、すでに深川民衆生活の特殊相の一つである『いなせ』の萌芽を、そこに見出すことができる。