歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 門前町・深川の姿かたちを描く
[西村ゼミ要約(2)] 門前町・深川の姿かたちを描く
永代島の生成と八幡宮
「深川が単なる漁師町としてではなく、門前町という発展した姿かたちを備えて来るのは、寛永と元禄の間 (十七世紀後半、徳川幕府三代家光から五代綱吉の治世下)である」
漁師町から門前町へ――『深川情調の研究』の著者・西村眞次教授は、この変化こそが、深川文化に深く影響を与えたものと見ている。以下は『深川情調に研究』から、「門前町・深川の姿かたち」に関わる部分を抽出したものである。
永代島の成り立ちがいつのころだったのか。萬治年代(1658~1660)にはすでに永代島の名称があるから、それより以前、おそらく寛永年代(1624~1643)に、その地名は起こったであろう。
富岡八幡宮は寛永元年のころ、長盛(ちょうせい)法印が八正宮(八幡大菩薩のもとの名)の夢のお告げで建てたもので、同八年にはかなり立派な社殿が建立されたらしい (浅井了意著『江戸名所記』による)。神体は菅原道真の作で、古くは源頼政が崇め、その後、千葉氏の家にあったものを足利尊氏に伝え、尊氏から鎌倉の公方基氏、持氏に伝え、それを管領である上杉氏が代々崇敬し、太田道潅もまた深く崇敬したといい伝えられるもので、元は下総国に斎祀されていた。砂村新田の元八幡宮がそれである、という。
深川祭は360年前から八月十五日と決まっていた
はじめて祭礼が行われたのは寛永二十年(1643)八月十五日で、それ以後、毎年同日をもって祭礼が行われることになった。【筆者註:現代では、八月十五日にもっとも近い日曜日】
萬治のころには、境内はすでに老松が茂っており、海岸に近く、塩焼く煙が風になびき、東の方には遠く、安房、上総の山々が望まれた。そうした景色や祭礼が、次第に江戸市民を惹きつけ、ここに参詣したり、逍遥したりするものが多くなった。
元禄の全盛時代に先行する天和、貞享の市民生活を描いた『紫の一本』は、そのころにはすでに永代の八幡宮前に茶店が立ち並び、門前町が出来上がりつつあった様子を、こう述べている。
――『社(やしろ)から二、三町(1町=約100メートル)手前の中はみな茶屋で、そこに多数の女がいて、参詣人の弄ぶにまかせている。なかでも鳥居のうちの洲崎の茶屋では、十五、六歳の美女が十人ばかりいて、酌をしたり、小唄を謡ったり、三味線をひいたり、鼓を打ったりした後で、「さあさあ、踊りましょう」と、当時流行の伊勢踊りを踊った。(歌詞、略)それを音頭、手拍子に合わせて踊る風流さは、山谷(さんや)の遊女も爪をくわえて塵をひねるほどだ』
茶屋には花車屋、澤潟(おもだか)屋、升屋、住吉屋などがあり、女にはおしゅん、おりん、お花、お蝶、おかんなどが『御の字』だといわれていた。
こうした茶屋が非常な勢いで発展していったのは、江戸民衆の遊び好きにもよったが、実は江戸政府が黙許の姿勢をとっただけではなく、むしろ秘かにそれを助成した傾向にあったからだ。幕府は護国寺を建立したときにも、音羽付近(門前の青柳町)に茶屋を出さして、茶屋女に淫を売ることを黙許して、その付近の繁栄に赴くことを希望した。葭原(人形町吉原のこと)ができたときにも、陰になり陽になってこれを擁護し、やがて繁華な市街地に育つと、すぐのその移転を遊郭に申し渡した。つまり政府は、新開地の発展が容易でないから、酒色という牽引力に富んだ目的物を置いて、そこに市民を誘い出そうという政策をとったのであった。それ故に富岡八幡宮は遊楽の地となって、次第に森厳な神域としての性質を失うようになっていった。
明治末期の八幡宮と深川公園の姿を今に伝える漆喰画
永代寺の「山開き」と三十三間堂
慶安四年(1651)には法務貫首に命じて、宮寺として永代寺を住持させる。その秋から、神前で鎌倉鶴岡八幡宮を模して流鏑馬(やぶさめ)を行わせた。(八幡宮興隆で境内が賑やかになっていく様子は略す)永代寺の庭園は善美を尽くして林泉の眺め美しく、享保のころ(1716~1736=八代将軍吉宗の時代)には、すでに毎年三月二十一日にそれを開放して民衆に観覧させている。いわゆる『山開き』のことで、江戸における年中行事の著名な一つと考えられていた。
(八幡宮の東に隣接された)三十三間堂ははじめ、寛永十九年(1641)に浅草に造られたが、元禄十一年(1698)に焼けたので、永代島に移すことになった。これはもとより京都の三十三間堂を模したもので、正保二年(1646)以後、毎年ここで大矢数が行われ、通し矢の数を競うようになった。
「一の鳥居」から「洲崎弁財天」への道
後世までやかましく言いはやされた一の鳥居は、八幡の社殿から三町(約330メートル)ばかり西にあって、この鳥居から先がいわゆる『門前』で、茶屋と町屋とが建ち並び、鰻、牡蠣、蛤が名物であると、享保年代(1716~1735)に書かれた『江戸砂子』の第二版に記されている。この門前から左と右とに分かれて、北西は大渡し(今の永代橋のある場所)に向かい、南東は紀伊大納言邸(いまの入船町、島田町付近)に向かう道路が開け、ついに八幡と洲崎弁財天との間を連絡してしまった。
洲崎の弁財天は元禄十四年に建立されているが、境域が海中に突出しているので、東方には房総の山々、南方には羽田、鈴が森、北西には近く江戸城、遠く富士山、北東には筑波山を望むことができるだけではなく、三月の汐干にはここに遊ぶものが多く、追々と門前に茶店が建ち並んで、蕎麦切がそこの名物となるにいたった。
深川永代寺の庭園、洲崎弁天の料理茶屋、八幡社地の二軒茶屋が『風流、目を悦ばす』ようにできあがったのは、元文年代(1736~1740)であるというから、その頃には立派に門前町ができあがって、茶店だけではなく、小売商人の家も建ち並んでいたと見なければならない。そうした茶店での遊興の様子については確実な記録が残ってはいないけれども、御船唄として残っているものの中から一つ、佃踊りの歌詞によって窺うことはできる。
またも心の 浮かるるところはどこだんべ 八幡の茶屋の娼(よね)衆が
するするてんてん 三味を弾く
佃島汐干にすなどる子供の さっても拍子のおもしろや
あなたの遊びに こなたの遊びに 大きに大きに浮りやァがって
熊谷笠きてふらりふらり くわっとめされた
『浮かれ草』上 佃踊りの条より
慶長年代の情調を、その詞曲に認めることができるのであえて採録したが、とにもかくにも、こうして神社や仏閣を中心にして、門前町の姿かたちが成立し、それは年々に発展し、ついに明和、安永の爛熟時代(1770年を中心にした前後の20年間)を迎えるにいたったのである。