歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 望郷の想いが摺りこまれた町名と最初の運河
望郷の想いが摺りこまれた町名と最初の運河
橋の袂に派出所があり、永代通りは下り勾配になる。車道はスリップ防止用に、アンツーカー色の特殊な路面が採用され、加えて、軽く右へカーブさせ、ドライバーの注意を喚起させる手法を用いるなど、設計者の配慮が感じられる。
道路標識には「佐賀一丁目」とある。この界隈は、江戸・元禄の時代に永代橋が架けられた折に、それまで深川藤左衛門町・同次郎衛門町とよばれてきたのを、橋から眺めた地形が、九州・肥前国の佐賀湊に似ていることから「深川佐賀町」と改名されたという。初期の開拓者たちの望郷の想いが摺りこまれた町名、と受け止めた。そんな風に、目に触れるものの一つ、一つを取り上げても、どれもが人の関わりを抜きには語れないのが、なぜかうれしい。
永代通りに入って、最初の運河にぶつかった。鉢巻きに法被姿の若者が米俵を担ぎあげている「いなせ」な看板絵。大島川西支川(にししせん)、とある。はじめて目にする名前でも心配はいらない。この町は、きっちりと説明板を用意してくれる。読んでみようか。ご丁寧にも、江戸時代の地形図まで添えてある。
大島川西支川 大島川西支川は、右岸佐賀二丁目・左岸福住二丁目で仙台堀川から分かれ、大横川(旧大島川)へ至る延長約八二〇メートルの河川です。両岸は、おおよそ元禄期(1688~1704)までに埋め立てられた町で、川沿いには河岸地が設けられ、かつては荷物の積み降ろしなどでたいへん賑わっていました。
本川の大島川は、木場五丁目から隅田川へ注ぐ河川で、名称は、北岸の大島町(現永代二丁目の内)に因みます。昭和四〇年の河川法改正により大横川に併合され、西支川・東支川に大島川の名称が残されましたが、平成四年、東支川が区立木場親水公園となったため、現在の地図上では西支川のみが河川としてその名称を受け継いでいます。(江東区)
かすかに風が渡ったときだけ表情が動く、ひっそりとした川面。過去の華麗な記憶を、この運河のどこに隠しているのだろう。改めて、探し当てる日を用意しなくては……。
大島川西支川の上にかかった福島橋を渡ると、渋沢栄一創業の倉庫会社ビルがここにある、という案内板が立っている。邸宅もここにあり、実業界の雄であった彼が、この町をいかに愛していたかを伝えている。彼もまた、運河に魅せられた明治の男であった。
門前仲町にむかってまっすぐ伸びる永代通りから、葛西方面へ分かれる交差点に出た。その手前の歩道のプレートが目についた。区花のさざんか、永代橋をあしらったデザイン。道路脇の柵にも、永代橋の透かし絵がはめ込まれている。「道しるべ」の創りにも配慮がこもっているのが、わずかな区間を歩いただけで読み取れる。地域の文化遺産を、この町は大事に温めている。
この先、深川が何を語りかけてくれるのか、ますます、心が弾んできた。
街角に散りばめられた「深川の誇り」
→次回更新:6月第4週予定