歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 西村教授の見た「永代橋界隈」復元のいとぐち

西村教授の見た「永代橋界隈」復元のいとぐち

 25.6mの横幅を持つ永代橋は、中央を走る放物線状の鉄骨アーチの下が自動車専用路となっており、その両脇にあたる上流側、下流側のそれぞれに、自転車と歩行者のための通路が、用意されていた。ちなみに、橋の長さは184.7mだという。

 上流側の歩道を深川方向へ、改めて踏みだした。頬をなでる春の川風が快い。河畔名物の桜堤も、河口に近いこのあたりまでは届かないらしく、コンクリートの護岸壁のむこうは倉庫やビルが無機質にひしめいている。さて、例の集団はどうしたかな、と目で追ってみると、舞台の奈落でも仕掛けてあるのか、その姿が一瞬のうちに消えている。あれは幻だったのか。

 永代橋を渡りきる手前で、欄干に手をそえて上流を眺めたとき、その謎はあっさり解けた。目の下にある東岸側の隅田川テラスに彼らは降りたっていたのだ。遠くてはっきりしないが、壁側に貼られた銅板レリーフの前で、リーダーらしき人物の解説に聞き入っていた。

 「江戸を歩く」をテーマとしたウォーキングツアーかもしれない。すると、吉良邸に討ち入り、本懐を遂げた赤穂浪士の一行が、高輪泉岳寺にむかう途中、乳熊(ちくま)屋で休息し、甘酒の接待をうけたといわれる口伝の碑がそこにあるのだろうか。

 ならば、当方もグループのあとについて聴講させてもらうか、などと危うく、誘惑されそうになったが、一団は上流にむかって移動をはじめたし、こちらも、寄り道ばかりはしていられない。当初の目的である「江戸深川情緒の研究」に描かれた世界が、今の時代にどう繋がっているか、を照らし出すための「第一歩」にとりかかったばかりでないか。

 そこで、あっと気付いたことがある。「両側は水であった。水のほか何物もなく……」と書き出した、あのプロローグで、著者である西村教授は「電車で永代橋を渡って……」と、深川入りの印象を述べていたが、少なくとも、大正期には路面電車がこの橋の上を走っていたということなのだ、と。すると西村教授を乗せた電車は、この橋のどの部分を使って走っていたのだろうか。そんな余地があるようには思えないのだが……。

 東京の町を網の目のように張りめぐらされていた都電の路線が、早稲田と荒川車庫間だけを残して消えていったのは、昭和42年(1967)から47年にかけてのことで、日本橋から深川・門前仲町を抜け、洲崎を終点とする路線が、このあたりを走っていたかすかな記憶。それが甦った。



永代橋を東へ。路面電車がここを走っていたのか永代橋を東へ。路面電車がここを走っていたのか

東詰テラスの壁に貼られた銅板レリーフに注目東詰テラスの壁に貼られた銅板レリーフに注目

永代橋の歴史と浮世絵の透かし彫り永代橋の歴史と浮世絵の透かし彫り