歴史散歩道[第1弾]江戸深川情緒の研究 忍者のように新しい世界へ

忍者のように新しい世界へ

 石段を下りた。目の前で、圧倒的な水量が音をたてて左から右へ動いている。頭上に永代橋の橋桁が迫る。遊覧用の水上バスがかろうじてすり抜けた直後らしく、川面が波立ち、騒いでいた。きれいに護岸され、隅田川テラスと名づけられた遊歩道が、下流へむかってつづいているようだ。それにつられて、秘密の抜け道さながらに、忍者のように橋の下をくぐって明るいテラスへ出てしまった。と、視界は劇的に新しい世界と、入れ替わる。

 東京湾にむかって、隅田の流れは、超高層マンション群の基地と化した佃島にぶつかり、晴海運河とふたつに分かれていた。左手の運河側が江東区豊洲地区。いま首都圏東京でもっとも沸騰している新興の町なのだが、それが越中島とひとつとなって、こんなに親密に永代橋と隣接しているとは。右手に中央大橋。斬新な白いデザインで知られている。


 こうなると欲が出た。今度は上流の方から、この永代橋の横顔を眺めたくなる。が、残念ながら、隅田川右岸の遊歩道は、日本橋川が西から流入して来るため、一旦は石段をのぼって豊海橋を渡り、改めて川岸に降りて行くことになっていた。

 豊海橋側の隅田川テラスからの眺望を楽しんだあと、もとの橋のたもとに戻る。その途中、つつじの植込みにまもられて、御影石が碑文を抱きかかえて待っているのに気づく。ちょうどこの位置から永代橋を臨んで、佃島に浮かぶ漁舟を描いた広重の浮世絵を左側にあしらったもので、画像をワンクリックしていただくと、少し汚れて傷がついてはいるものの、そのままの絵がご覧いただけるはず。さらに、右側に添えられた永代橋についての散文的な情報が、簡素にして要を得たものだった。こうしたものに出会えるのが、ウォーキングの功徳というべきで、その「散文的な情報」を、そっくり紹介しよう。

 永代橋は、元禄十一年(1698)に隅田川の第四番目の橋として、現在の永代橋の場所よりも上流約150mのこの付近に架けられていました。当時、橋の左岸を永代島と呼んでいたことから「永代橋」と名付けられましたが、一説には五代将軍綱吉の五十歳を迎えた記念として、その名を付けられたとも伝えられています。当時諸国の廻船が航行していたため、橋桁を十分高く取ったので、「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし」といわれる程の橋上からの景観でした。
 上図は、安藤(歌川)広重の天保前期の作品「江戸名所之内永代橋佃沖漁舟」であり、月下の沖合に点々と白魚舟の篝火が明滅する夜の江戸を、詩情ゆたかに描き出しています。永代橋が現在の場所に移されたのは明治三十年(1897)のことで、わが国の道路橋としては初めての鉄橋に生まれかわりました。その後、関東大震災で大破し、大正十五年(1926)十二月に現在の橋に架替えられました。その姿は、上流の清洲橋の女性的で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重量感にあふれており、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。(1989年4月 中央区)

1_22.jpg一旦、豊海橋を渡って上流のテラスへ


「江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟」を陶板にして張り付けた石碑(中央区制作)「江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟」を陶板にして張り付けた石碑(中央区制作)

永代橋東詰に「重要文化財」指定の
記念碑があった
平成19年(2007)6月、永代橋は国の重要文化財に指定され、石原慎太郎都知事が誇らしげに「指定の意義」を、署名つきで伝えてくれる。

東詰に石原都知事署名入りの顕彰碑あり東詰に石原都知事署名入りの顕彰碑あり

 さて、いよいよ、念願の永代橋を渡るとしよう。まだなにひとつ、「江戸深川情緒」に直接、触れてはいないのだから。そこでもう一度、カメラを永代橋に向ける。最初は武骨に感じた恐竜を連想させるあのアーチが、その向こうにそびえ立つ高層建築物のタテに伸びようとするエネルギーとミックスし、ほどよい放物線を描いて、隅田の水の景観を盛り上げている。と、ファインダーのなかで、五〇人くらいの集団が、長い列をつくって、永代橋を渡っていく。

 記憶が一つ、よみがえった。遠い元禄の時代(1702)。大石内蔵助が率いる赤穂浪士の一行が吉良邸討ち入り後、本所から深川、そしてできあがったばかりのこの橋を渡って、高輪の泉岳寺をめざしたという。その突然の連想から、前を行く集団を追ってみる気になってしまった。

永代橋


LinkIcon前ページへ戻る   |   次ページへ進むLinkIcon